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香港の辿った様々な道と様々な"支配者"たち-1
更新日:2019年11月26日
先ず多くの人がイメージする香港の有名な歴史上の出来事と言うのはアヘン戦争のことであり、その前の出来事については触れられるような機会は多くありません。当然のことながら、それ以前にも人々の営みはあり、新石器時代の頃からこの地に人が住んでいたことがランタオ島やラマ島等の地域から遺跡が出土していたことで証明されています。
秦の時代にはあの始皇帝が珠江下流域を支配下に置いたこともあって、香港は南海郡番禺県の管轄となったとのことです。時は流れて唐の時代になると広州が南海貿易の交易港として発展したこともあり、香港のNew Territories (新界)では兵士の駐屯地として屯門軍鎮が設置されたりしました。
宋の時代には、北方民族の南下にともない、漢民族も北部から南部へと移動したことでその流れから香港にも一部の漢民族が流入していったとのことです。
清の時代になると、以前の明の復興を画策する抵抗勢力が中国沿岸を荒らしまわったこともあり、それに対抗するため、福建や香港を含む広東省の住民を内地へ強制移住させたことで一時的に荒廃した経緯がありましたが、7年後に撤廃が解除された以後は広東省北部や福建省に暮らしていた客家を開拓民として香港へ移住させたと言う変遷を辿ることになります。
◆英国の統治
香港で歴史的な観点から重要な転機となった出来事と言うのはやはり「アヘン戦争」であることは否定できません。この事件についての一般的な認識では、当時の対中赤字を解消したい英国が画策した麻薬(=アヘン)の輸出と言うことになります。
これによって国全体が荒廃してしまったことを理由として、当時の中国政府(清)はアヘン輸入を禁止し、これに反応した英国が艦隊を差し向け英中は開戦、結果として中国を屈服させる形となりました(1842年の南京条約にて決着)。この流れで(今で言う)香港島は英国に割譲されることとなり、以後の英国統治の為の下地が作られることになります。
またこの舞台で重要な役割を果たしたのが当時貿易商であった英国のウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンの二人であり、彼等はアヘン密輸で巨万の富を得ただけでなく、アヘン戦時中も英国政府に香港の割譲をするように進言もしていたとのことです。
今、香港にはこの二人の名前を冠する商業ビル(例:ジャーディン・ハウス/在セントラル)等も建ち並び、依然としてその成功の残像を残している訳ですからそうした視点で香港の街並みを見ることも面白いかも知れません。
さて、こうして勝利した英国ではありましたが、上述したように中国から最初に割譲されたテリトリーと言うのは「香港島」だけでした。つまり、(地理的に言うと)当時の英国領はそこだけの話であり、対岸側である九龍地域や新界地域は依然として中国だったわけです。
では何故その後、この"図式"が崩れることになったのでしょうか?それは1856年に発生した「アロー号事件」です。もともとは英国人の船長が乗っていた船と中国側の小競り合いが切っ掛けに過ぎなかったところに、たまたまフランス人宣教師が同時期に広西で殺害されてしまった事件が発生してしまい、これに対してフランスが中国に激高、英仏連合として再び中国と相対時することとなったのです。
結果、またしても中国は敗れることとなり(天津条約⇒北京条約)、この結果、九龍半島南部が英国に割譲されると言う流れになりました。
以上、香港の歴史の創成期から英国統治の切っ掛けまでを今回はご案内させて頂くことになりましたが、次回は更に激動期となる英国統治、第二次世界大戦、日本占領時代、中国返還から一国二制度の設置と動乱まで、をご紹介します。