1. TOP »
  2. 法人設立お役立ち情報 »
  3. 香港 »
  4. 香港一般

香港法人・オフショア法人設立お役立ち情報

香港 > 一般

香港の辿った様々な道と様々な"支配者"たち-2

更新日:2019年11月28日

英国が香港の支配権を獲得すると、(先の)ジャーディーン・マセソン商会を筆頭として次々に英国系貿易商社が香港に拠点を構えて行くことなります。この動きは香港経済全体を強く後押しすることになり、職を求めた中国大陸側やインド等からも多くの人間が香港に移り住んで来るようになりました。

"社会的階層"と言う視点で見た香港は、英国人が最上級階層に位置付けられ、住居や文化的施設、教育、宗教、病院施設、また交通網等も全て英国流で整えられるだけでなく、金融では香港上海銀行が1865年に設立されたり、またインフラ等では香港島と九龍半島を結ぶフェリーや中環と欧米人専用住宅街を結ぶピーク・トラムが作られることになりました。


当時、中国(清朝)は幾つかの戦争(清仏戦争、日清戦争)で敗北を喫した為国力が低下、英国側の圧力に抗えず香港境界拡張専門協約を締結させられてしまいます。これを機として新界も英国に租借されることとなり(租借期限99年間)、これを持って、現在認識されている香港全土の地図の形へと変化することになります。


そして20世紀初頭の香港では貿易の中心地として一層の発展を遂げて行くことになります。先ず交通網であげると1888年に運行を開始したフェリーが1898年には英国系のスター・フェリー社に経営が移ることで路線を拡大、また1904年には香港島北部を走るだけだった路面電車の香港トラムが、その6年後の1910年には九龍と中国・広州までの距離を結ぶと言った形です。


時代を日中戦争まで押し進めて行くと、当時香港は(蒋介石の)南京国民政府と諸外国の関係をつなぐ中継基地としての役割を果たしていました。その後1941年12月、日本軍が香港への侵略を開始し英国を撃破すると、以後、(僅か約3年8カ月ではありましたが)日本の支配下に置かれることになる運命を経験します。


日本軍支配時代の香港と言うのは基本的方針として徹底的な"反英国"政策が取られることになりましたが、経済的には日本軍が安易に軍票を乱発したため香港経済はインフレ発生で停滞することになり、苦しい時代を迎えることになります。そして時は1945年8月15日、太平洋戦争が終結後、復権した英国が再び香港をその支配下に置く期間を経ることになります。


1970年代に入ると、前述の新界租借期限が満了するのを睨んで中国と英国の交渉が活発化、当時、英国首相のサッチャーは中国に対して強硬路線を取ることで香港を引続きその支配下に置くことを主張しましたが最終的には1984年に「中英共同声明」で決着。香港は1997年7月1日に中国に一括返還される、と言う決定が発表されることになりました。


そして1997年、香港は英国から約束通り中国に返還されることになり、以後「特別行政区」⇒一国二制度を構える重要なピースのひとつとなったのです。


経済的にはアジア通貨危機(1997年)、SARS(新型肺炎)と言った負のインパクトが続く2000年前後でしたが、これが終息すると(中国本土から香港への個人旅行が解禁されたことも相まって)観光客が激増することとなり、逆に飛躍的な発展を成し遂げることとなります。


しかしながら2014年、行政長官を決定する選挙方法を巡り中国政府の一方的な判断による方針変更が引き金となり、約3ヶ月弱に渡る座り込みデモ(=雨傘運動)が勃発。また、今年は「逃亡犯条例」修正を巡って民意と政府が再び激しく激突し現在でもそれは継続することとなっています。


以上、こうして歴史を見て行くと香港では幾つかの歴史的に重要なターニングポイントにおいて様々な支配者が存在していました。


中国(清朝や唐朝)⇒英国⇒日本⇒英国⇒中国...、こうして見て行くと香港とはまさに古今東西において"権益の道具"であると言うことが見て取れて来ます。仮に今回のデモを(将来のある段階で)振り返るようなことがある時、香港の"支配者"が一体誰になっているのか?と言うことを考えるのも面白いかも知れません。

▲ページのTOPへ

スマホサイトを表示