参院選も大詰めを迎えつつあった7月8日の最中、奈良にて自民党候補者の為の支援として遊説していた安倍晋三元総理(以下、安倍氏)が突如何者かにより銃撃にあい、あえなくその命を落とすことになりました。まさに"殉職"とも言える衝撃の展開となった訳であり、日本政府は憲政史上最長となり、その政権を維持することで多くを日本に齎したこの大宰相を国葬をもって送り出す決定を発表しました。
安倍氏の功績を「香港」と言う視点でのみ捉えた場合(返還以後の政治的論点では殆ど中国の独壇場であったこともあり)、2019年のデモ発生や国家安全維持法を巡る際のやり取り以外は"殆どない"と言うのが実態ではありますが、"一国二制度"を標榜する香港のバックにいる中国を相手に考えると、こうした例を取るまでもなく、日本と中国間で度々発生して来た(来ている?)政治的な軋轢を数度に渡って改善に導いた功績を、日本は元より中国の政治家達の多くはその記憶に留めていると言っても間違いではないでしょう。
ご存知の通り、安倍氏が擁立した内閣は2度あります。
1度目は2006年のことであり、その時初めての外遊先として中国を選択したと言うのは余りにも有名な話です。何故ならば戦後の歴代首相の中で中国を最初の外遊先として選んだのは安倍氏が初めてだったからであり、当時、冷え上がりつつあった両国の関係がこの訪問を契機として再び活性化する流れを生み出す形になりました。結局、この第一次安倍内閣はその後僅か一年でその幕を閉じることになる訳ですが、後を継いだ福田内閣が胡錦濤主席の訪日を実現、また東シナ海ガス田共同開発協定の調印と言った"果実"を掴み取ることに成功します。これは一にも二にも安倍内閣が蒔いた種が切っ掛けであったことは周知の事実です。
しかしながら、この協力関係も例の「尖閣諸島」の国有化を巡る件で両国の関係が一気に最悪化することになります。そしてこのタイミングで第二次安倍内閣はスタートする運命を辿ることになるのです(2012年12月)。ここでも中国との関係修復と政治的な妥協点の創出を狙って安倍氏が打った政策というのは印象的なものがありました。
例えば先ず挙げられるのが、2014年の日中首脳会談での「4項目合意」です。詳細は割愛しますが、日本が尖閣諸島を国有化したことに関して中国側との間で"係争"(中国)及び"緊張状態が発生していることについて異なる見解"(日本)を有していることを認識すると言うものでした。この合意は抜本的な解決には至らないものであったとは言え、少なくとも双方で本件を政治的な課題として認識すると言う点において成果を得る内容のものであったと言えるでしょう。
その後、この問題で硬直化していた日中関係を軟化させる方向へ導く切っ掛けとなったものが、(条件付きではあったとは言え)中国が進めている国家プロジェクト(一帯一路)への日本の協力体制を表明したと言う英断です。
また、2018年には安倍氏の中国公式訪問&「3原則」の提起を行い、少なくとも日中共がお互いを"脅威とならない"と言う根幹の部分での合意を引き出したことや、翌2019年には大阪開催のG20では習氏の日本訪問(国賓待遇)の受諾等々...このように同氏は日本が伝統的ですらある"米国一辺倒"の外交スタイルからの脱却も試みていたことが挙げられます。
習近平国家主席が安倍氏死去の報を聞き、すぐさま弔辞として「安倍首相は在任中、中日関係の改善を進めるために努力し、有益な貢献をした。突然の死去を悲しみ、惜しんでいる」と送ったことが、如何に同氏を評価していたのかどうかが如実に表れています。
何れにしても、こうした国際的なスケールを有し、世界における日本の政治家のイメージを根本的に覆した安倍氏の功績と言うのは量り知ることが出来ないほどのものであったのは一目瞭然です。今後、日本の進む道は不透明であるのは事実ですが、この稀有な宰相の遺したものが次世代に正確に引き継がれることを今は祈念して止みません。